光照寺について

概要

宗旨 西山浄土宗
本山 総本山光明寺 京都府長岡京市粟生西条の内
名称 宗教法人 (摂趣院 十界山)光照寺
本尊 阿弥陀如来
創建
 寺伝によると、もと真言宗で現在地の
北東1キロメートルの中村垣内地区にあったが、
天正13年(1585)の羽柴軍(豊臣秀吉軍)
の南征の兵火に遭い焼失、翌年宗春が浄
土宗西山派の寺院として再興したという。
 ところが、近年発見された東岩代八幡神社の棟札には、
大永3年(1523)に「光照寺が東岩代八幡神社再興
に100文寄進した」と記されている。次に、羽柴軍南
征の25年前の永禄3年(1560)、東岩代八幡神社
の棟札に「筆者伏山光照寺住持四休(助休ヵ)」と記
している。この棟札によって、光照寺は天正13年
(1585)の羽柴氏南征以前から伏山に存在していた
ことになる。現在地付近の小字の「岡」「結」は
有間皇子や中皇命などが歌を詠んだ万葉の遺跡で、
飛鳥、奈良時代から全国に知られた土地であること
から、また、中世の五輪塔や宝篋印塔が多く残っている
ことも、古くから開け寺院が建てられていたと
考えられる。(南部町史より)

什物

本堂内の仏像
本尊木造阿弥陀如来立像(安阿弥(快慶)作)
脇士木造観音菩薩立像
脇士木造勢至菩薩立像
木造善導大師坐像
木造法然上人坐像
木造西山上人坐像
木造浄音上人坐像
薬師堂内の仏像
木造薬師十二神将 (薬師如来は坐像、他は立像)
木造如意輪観音菩薩坐像(南部町有形文化財)
木造地蔵菩薩立像

仏像

鏧(うちならし):南部町有形文化財(南部町史「文化財編」参照)天保9年(1838)戌7月下旬 聰空萬明代
鉦(かね):「鉦鼓」または「伏鉦」とも呼ばれる。浄土宗系各寺院や堂に置かれている。当寺には、大小二つあり江戸時代からのもので南部町有形文化財である。
・外径28.2㎝ 文政12年(1829)7月 西村和泉守作
・外径11㎝ 粉川福井良房作
三十三観音掛け軸(織物):正月の三が日だけ、本堂東脇檀前に公開する。文化十年(1813)十月
この掛け軸は絵を描いたものではなく、三十三観音菩薩を織り込んでいる。掛け軸の裏にはいわれ(次掲載)と、浄財の施主の名前、追善菩提戒名、命日を書いている。

年中行事

初薬師

初薬師 1月15日
病気やけがなど、私たちの身近な悩みに寄り添ってくれるのが「薬師如来」様といわれています。当寺では、正月15日に竹の筒で燗をしたお酒を、病気にならないように厄除けとして「ガン封じ」にと振る舞っています。持ち帰り用の細い竹筒も用意しています。「薬師如来」は「東方薬師瑠璃光如来」ともいい、「健康安全、家内安全、交通安全」等のご利益が信じられ信仰されています。
同時に、光照寺婦人会総会や英霊法要も行われます

御忌

御忌 1月25日
法然上人の祥月命日の法要を「御忌」と言います。建暦2年(1212)正月25日です。当寺では、2月下旬「とき講」と言って、お斎ときをふるまってお説教を聞き法要を勤めます。当地方では、「輪番御忌」といって、南紀西山護法会主催により南部宗務支所第10組組内を輪番でお勤めしています。
「御忌」という言葉は、皇室のみに使われていましたが、法然上人の高徳を讃え特別に、大永4年(1524)後柏原天皇の勅命によってこの法会が始まりました。総本山光明寺では、毎年4月19日から25日までの1週間勤められます。

涅槃会

涅槃会 2月15日
お釈迦さまがご入滅になった日を涅槃会といいます。「涅槃」というのは吹き消すこと、迷いの火を焼き尽くして悟りの境地にいたることと言われます。当寺では、涅槃図の掛け軸をかけ、黒豆ご飯をお供えして法要を勤めます。涅槃図には、沙羅双樹の根元に頭北面西右胸臥の姿でなくなったお釈迦様の周りにお弟子さんやいろんな動物が悲しんでいる姿が描かれています。

彼岸会

彼岸会(春分の日/秋分の日)
太陽が、真東から出て真西に沈む、春分の日と秋分の日を中日として、前後3日間を彼岸と言います。彼岸とは「彼の岸」のことで、仏の世界のことです。彼岸中は修養期間で、お墓やお寺にお参りし、ご先祖の供養をします。
当寺では、彼岸の中日の夜、お彼岸のお勤めと、永代供養のお勤めをします。

花まつり

花まつり(隆誕会) 4月8日
お釈迦さまのご誕生を祝う行事です。当寺では、5月ゴールデンウィーク中に勤めます。花御堂を作り、その中にお釈迦さまの誕生像をお祀りし、甘茶をそそぎます。

百万遍

百万遍 7月15日
大きな数珠をまわしてお念仏を称えます。農作物につく害虫を駆除しその年の豊作を祈願するお勤めです。

盆施餓鬼

盆施餓鬼 8月7日 7時~11時
お盆を前に、ご先祖さま・物故者の供養、添え施餓鬼のお勤めをします。

棚経

棚経 8月13日~15日
各家をまわり、仏壇や精霊棚(水棚)でご先祖さまの供養をします。

精霊送り

精霊送り 8月15日 7時半
お盆の間、家に迎えた先祖の霊を「送り火」を焚いてお送りします。西岩代の浜でお勤めします。

英霊さん

英霊さん 8月16日 19時半
西岩代地区の英霊供養のお勤めをします

地蔵盆

地蔵盆 8月24日 19時~
お地蔵さまに感謝の気持ちを込めてお供え物をし、子どもの幸せや健やかな成長を願い法要をします。水子地蔵前でのお勤めと、子どもたちの盆踊りも奉納されます。

お十夜

お十夜 10月15日
秋の収穫に合わせて報恩感謝の心を込めて法要を行います。『無量寿経』に「ここにおいて善を修すること、十日十夜なれば、他方諸仏の国土において善をなすること千歳にすぐれたり」とあり、これをよりどころとして室町時代に始まりました。

西山忌

西山忌 11月下旬
流祖西山證空上人の年忌で、宝治元年(1247)11月26日71歳にて亡くなられました。令和2年は11月15日に法要を勤めます。

除夜の鐘つき

除夜の鐘つき 12月31日 23時半-24時半
除夜の鐘つきを開放しています。百八の鐘をつき一年の感謝をして、心新たに新年を迎えましょう。
鐘つきの後、本堂で「修正会」のお勤めをします。前年の悪を正し、新しい年の吉祥を祈願し法要を行います。

光照寺の歴史
南部町史によると、元禄7年(1694)7月の「田辺領寺院改帳」に
「開基之時知不申候、百拾年程以前寺炎上仕、翌年宗春申僧建立之由、代々浄土僧住持仕来候」と記している。
元禄7年(1694)より110年前は、羽柴軍の南征の天正13年(1585)であるから、
天正の兵火の翌年(天正14年)に宗春という僧が浄土宗西山派寺院として再興したと考えられる。
東岩代八幡神社棟札から、宗春は約50年間、光照寺住職として活躍した記録がある。

第5代観潮上人は奇石を収集愛好したことで有名である。文化年間(1804~1818)に珍しい化石を紀伊大納言に献上し、
「摂趣院」の院号を受け、文政3年(1820)紀伊大納言御筆字の扁額を拝領している。

本堂
寛延3年(1750)火災に遭い、堂宇・宝物を焼失する。天明2年(1782)に本堂及び山門を再建した。当時の留蓋瓦の上に飾られた獅子瓦が現存し、南部町有形文化財に指定されている。文政12年(1829)5月、田辺瓦屋町吉の銘文が陰刻された当時の庫裡の立派な経巻瓦が境内に置かれている。昭和44年(1969)再建された。

薬師堂
江戸時代初期と推定される。創建は明らかではないが、安永4年(1775)再建の記録がある。現存の薬師堂は昭和48年(1973)に再建された。薬師堂前の石段は江戸時代初期のものと推定される。

山門
平成8年(1996)以前の四脚門と同形式のまま再建。以前の山門は、昭和31年(1956)の修理の折に発見された棟札により、文化3年(1806)に建立された。類例の少ない所謂禅宗様で切妻造・本瓦葺で左右に潜り門をつける形式の小規模な一間四脚門である。南部町の有形文化財であった。現在の山門は、同じ形式のまま再建された。(南部町史「文化財編」参照)

天和3年(1683)
の記録では、檀家数42軒で、田畑2反1畝を耕作している。
寛延3年(1750)
火災に遭い堂宇・宝物を焼失。
安永4年(1775)
薬師堂を再興。
天明2年(1782)
に本堂及び山門を再建した。
天明5年(1785)
庫裡を建立。
文化3年(1806)
山門を建立。
文政12年(1829)
庫裡を再建。
慶応3年(1867)
鐘楼を建立。梵鐘は第2次大戦中に供出したので、昭和32年(1 957)に再鋳した。
昭和44年(1969)
本堂を再建。
昭和48年(1973)
薬師堂を再建。
昭和56年(1981)
庫裡を再建。
平成8年(1996)
山門を再建。
平成25年(2013)
境内東に駐車場造成。
平成28年(2016)
庫裡別棟新築。